(20歳の)井戸端会議

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【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(松山)

お疲れ様でした。松山です。

 

 シェアハウス(以下SH)というテーマについて考えるにあたって今回は主に現実的な課題、マネタイジングを中心に考えてきた、その結果としてそれぞれの班が発表順に雑誌その他、バー経営、高齢世代の利用という案に至ったと思います。

 

 高齢者との共存というC班の案なんか特に面白そうだったりしたのですが、現実的な課題としてあげられるのは何もマネタイジングだけでもないような気もしています。

 

 何が言いたいかというと(あんまりにタイムリーな話題過ぎてちょっと触れたくないといえばまさにそうなのですが)、性の管理をいかにするかという切り口から考えてみても面白かったんじゃないかと。フーコーも講義(『安全・領土・人口』か何かなど)の中で、共同体を管理するにあたってまず整えなければならないものとして、①殺人の禁止の次に②性の管理を挙げています(ここで正確な出展を上げない時点でこの文章はエッセイ的なさむしんぐにならざるを得ないのですが)。

 

 いや、結構本当に今回の件で割と困るのが、性の管理について考えるというテーマが「ああ、あの馬鹿が言ってたことね」で済まされることになりかねないということなんじゃないかなと思ったり。ちなみに性って哲学というジャンルがそもそも苦手とするところのものであり、晩年のフーコーとか前期デリダなんかがその展望を示しながら結局その仕事が完成されることがなかったテーマで、そんなある意味で夢と希望あふれる領域が「ああ、あの馬鹿が(ry」で流されるようになった日にはもう『性の歴史』シリーズむしゃむしゃ食べながら奇声をあげて全裸で中央図書館の蔵書に火をつけて走りまわりたくなりますよ。

 

 

 

 閑話休題。

 

 マネタイジングという公共的要素の大きい問題を取り扱う制度をいくら綿密に確立したところで、それが性という人間にとって私的にして基本的な要素を無視している限り、抑圧されたものが回帰する可能性に常にさらされることになる、その危険についての問題意識です。下世話な話をするようで申し訳ないのですが、僕のような下世話な人間にはこういう下世話な点が気になってしかたないのです。(まぁだって男五人のネクストトゥー原始共同体(失礼すぎる)の話をするのにそんな柳田クニヲメンタルな清教徒的視点で語る義務があるのかと言ったらそんなことはないだろうし)

 

 性の管理について、具体的にはまず二つの分岐があると思います。つまり①そうした私的な問題については個人がそれぞれ解決したうえでSHに居住する②性という私的な問題の解決を内在するような一つのアーキテクチャとしてのSHを形成する。

 

 正直②は実際的に無理ですよね、それはもうそんな共同体の作り方あるなら教えてくれよw俺明日からコミューン作るわwwという話であって、いくら政治的正しさで頭がいっぱいのポリティカリー・コネクトネスの申し子たる我々世代にとってすら超絶夢物語にすぎません。だから仕方なく①の道を選びます。

 

 何が言いたいかというと、実際にSHの問題を考えるにあたって①の選択をするとして、それは本来的には②という「理想」の選択肢の代替案にしか過ぎないのだということ。さらに忌憚なく言えばSHで夢と希望と人間関係とそして金を分かち合うとしても、性(これはあくまで他の様々な私的な要素のうちのひとつの例でしかありません)は決して共有しない、その白々しさは永遠に否定できないだろうということです。

 

 だから①的SHの構想は悪い、ということを言っているのではありません。そうではなくそれがそもそもからそうした矛盾を(カント-デリダ的な言い方をすれば根源悪を)内包したシステムであるということを自覚する必要があるのではないかということです。たぶん最初にいくらソリッドな制度を確立したとしても、(自動車と歩行者だけから成るはずの道路交通に自転車が現れるように、ヤクザというシステムが我々の社会で何らかのかたちで必要とされているように)その制度から逸脱しようとする諸々の因子、逃走線を引く存在が常に遅れてやってくるでしょう。ですがそうした存在を排除することはきっと永遠にできません。というよりむしろ、制度は最初から運命的に不完全で(そしていくら制度的改善を試みてもそれは不可能で)、それを補完するのがそれら逃走線を引く異端的な因子たちなのでしょう。

 

 SHという制度を考えるにあたってそうした脱=制度的的な要素をいかに視野に入れていくか、という課題をいつか(ようするにSHがうまく回らなくなってきたとき)考えられる必要が出てくるんじゃないか…みたいなことを考えました。

 

(松山)