(20歳の)井戸端会議

(20歳の)井戸端会議のブログです。参加者のレポートなどなど。

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(井上)

井上です。感想を書きます。

 

ファシリテーターの鰐川と真辺が 「(25歳の)僕たちの楽しい都市生活実践」 と掲げた今回の井戸端会議のテーマを目にして、へえ字面だけみてもちょっと面白いかもしれない、なんてすこしワクワクしながら10°CAFEヘ赴く。

 

シェアハウスのはなしをしたいということをちらりと聞いていたことはきいていたのだけれど、憔悴した両名の顔を部屋に入ってたちまち目にした僕は、その瞬間状況を察した。「こいつら、ちゃんと準備できてねえな」、と。

 

「井戸端会議」よろしくその場で3つのグループに班分けすることが決定し、まったく右も左もわからないままに急遽僕はC班のファシリテーターを務めることに。

 

ざっと「アイデアが斬新でイカしてる理想のシェアハウスを考えよう!」というゴールを標榜しスタートした議論は、着地点が見えないままに二転三転。迫りくる制限時間の重圧に耐えかねて、結局われわれは高齢者との共存、名付けて「孫ハウス」というシェアハウスのアイデアを終了間際5分で纏めあげる。

 

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ここでも簡単に説明します。老人ホームなどの"繋がり"を担保する施設は入居にかかる費用が巨額な上、物件によっては入居待ちが続いていて、そこにあぶれて入居できないお年寄りは多数いるらしい。近年では東京では都市化が進むと共に地域に根ざす地縁的コミュニティの結びつきが弱くなり、お年寄りの孤独死が社会問題として糾弾されている。なかでもお年寄りが多く存在する(と思われる)高田馬場近辺。そこで僕たち大学生が「孫」役に徹し彼らとシェアハウスで共同生活をしてみよう、ということです。

 

物件はすでに決まっていたので、そこから逆算して僕たち大学生の入居者数は4人〜6人。お年寄りは2人〜4人。われわれ学生は介護のプロではないしずっとつきっきりでいられるわけではないので、寝たきりの要介護者などは対象ではなく、どちらかというと身寄りがおらず寂しさで死んでしまいそうだけれど体力はまだある高齢者がターゲット。介護、というよりもまさしく孫、という感じで、コミュニケーションを中心とした程よい距離感でのお付き合いをする。お年寄りはこちらに入居する代わりに、月々ある程度の金額を払ってもらい、それを家賃へと回す(それでも老人ホームの入居料よりはかなり安い)。基本的にマネタイズの課題はそこでほぼクリアしたい。

お年寄りのメリットとしては彼らの寂寥が紛れるということ(さらに知名度を得れば何らかの形で地域におけるコミュニティ醸成に一役を担えるかも)、わりあいテクノロジー的なものに強い若者の力を借りることで彼らの経験知識によって長年蓄積されているコンテンツのアウトプットを促進できるのではないか…と。僕ら大学生のメリットとしては、ある程度の労力を割けばマネタイズの課題がクリアされるということ、ともに暮らすことでお年寄りの経験知識スキルなどを吸収できるのではないか(昔の話やら料理やらの知恵などもふくめて)…など。こんなところでしょうか。すべて希望的観測であることは否めません。

 

どれだけ非難囂々になるかと身構えていたらば、わりと好印象で逆に拍子抜けしてしまいました。いくつか指摘にあったような解決されるべき課題(責任の所在、セキュリティなど)はありますが、もとの判断基準が「面白くて斬新なシェアハウスのアイデア」だった(と少なくとも僕は諒解しています)ので、我ながらなるほど確かに面白いし斬新かもしれません。

 

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しかし、僕はいまいち釈然としません。こんなことでいいのか、と。

そもそも僕自身はこのシェアハウスに暮らしたいのか。残念ながら首肯できない、そこがその違和感の正体だと思います。

 

今回の議論を通して明文化されずとも「暮らすということはどういうことか」ということが、ぼんやりと立ち現れてきたように感じます。まず言えるのは、大概の場合「面白くて斬新だけの家」には僕はあまり住みたいと思わない、ということ。

 

面白くて斬新な人、面白くて斬新な授業、面白くて斬新な会社、面白くて斬新なコミュニティに属したいという願望はあったとしても、それは逆に言うと「平穏無事な日常」を送れる家があるからなような気がします。平易に言えば「プライヴェートでは落ち着いていたい」。ただ、僕はプライヴェートの場所を必ずしも求めているのでなく、せめて家くらいは落ち着ける場所がいい、ということです。それはだれか友人とルームシェアをしていても可能であると思います。つまり、そもそも「暮らすこと」を、「面白くて斬新である」という観点をもとにして考えるべきではない。むしろ、他人と暮らすということは、どの程度価値観が細部まで共有できるか、許容できるかという斬新さとは掛けはなされたところを基盤にして出発されるべきであり、今回のようなアプローチはやはり適切ではない。

 

矛盾しているかのように思うかもしれませんが、それでも僕は生活に面白さがあったら素敵だと思います。趣味嗜好を共有する友人と暮らす、そのなかで日常をなんらかの形で拡張できたらきっとたのしい。繰り返しになりますが、僕が言いたいのは、暮らすということを考えるやり方として、今回のような「斬新で面白いアイデア」のみを模索してゆくような方法は適切ではない、ということです。

 

ほかにもいろいろ言いたいことはあった気がするのですが、もう1ヶ月以上前の議論になってしまっていろいろわすれました。シェアハウスはしたいなあ。

 

 

 

 

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(山中)

 

感想遅れてしまって、申し訳ないです。

 

「20歳の井戸端会議」については前々から存在は知っていたのですが、参加したのは初めてでした。バンドを一緒にしている仲間が主に組織しているので、ある程度想像はつきましたが、やはり「意識の高い」集まりでした。でも、ああいう場も悪くない、そう思いました。大学に通っているけども、そんなに真剣に話し合いをする場は少ない。たとえゼミでも、そこまで議論が活潑になることはない。普段そういう環境に身を置いているものだから、ああやって真剣に(今回は、真剣にという性格が薄かったんだと思うけど)話し合いをすることができる場は、大切だなと感じました。

 

さて、今回のテーマは、「(25歳の)楽しい都市生活実践」。

参加メンバーは、1グループ6人に分かれて、話し合いをしていきます。

鰐川がアパマンショップでとってきた、あるアパートの一室で、友人とシェアハウスをする。どこの部屋をどういう風に使うのかも自由、シェアハウスのメンバーでどんなことを、するかも自由、という設定でした。

「100人で住むシェアハウス」が最終的なコンセプトになりました。バーを運営し、定期的にテーマイベントを開催していくことでいろいろな人と交流していき、まるで100人で住んでいるかのように、生活の一部を共有していく、というもの。コンセプト自体はそこまで悪くないとは思うけど、実際できるのかと言われれば微妙なところだし、具体的に話を深化さえることができなかったから、こんなもんだろう、という感想です。

 

いまトレンドともいえるシェアハウス。やってみたいなと思いつつ、どこかで引いている自分がいます。クラウド上でデータは共有するし、カーシェアリングで車も共有する。ついに、住居も共有するようになってしまったのか、そういう心持ちです。

 

ただ、そこから若者はどう考えているのか、僕も若者であるので、考えていければいいなと思いました。

 

 

(山中)

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(藤村)

こんにちは。10°カフェの面接や第二回井戸端会議にてお会いした国際教養学部の藤村美華です。次回の告知が出て、感想送らなきゃいけなかったと思い出し二週間以上過ぎたいまやっと送ろうとしてるわけです。遅れてごめんなさい。

テーマが都市生活?という事で、なにやら訳の分からない人達とシェアハウスしてた時もあったしいつも都市生活やライフスタイルについて話してるんだからと友人の葛城に誘われて参加しました。
議論と考え事が趣味みたいな沢山の人々に囲まれ、井戸端会議面白いなあー楽しい事考える人いるんだなあと思いながら帰りました。
という事で詳しい内容思い出せてないです。すいませーん。

井戸端会議についてよく分かってない立場から、気になった事として、
都市生活・これからのライフスタイル?について考える?みたいなテーマだった気がするのですが、様々な条件が既に決定しているバンドメンバー数人のシェアハウスの計画という超具体的な所からこのテーマについて広げていくには・・。
あと、井戸端会議が”限られた”とても密な集団が知的欲求を満たす目的にあるならば分かるんですが、理論の世界から話してる人が多かった印象を持ちました。
ライフスタイルや都市生活という事について話すなら、より参加者に多様性があったら面白かったんじゃないかなと。
そして覚えてる範囲だと、学生と高齢者が一緒に住むという案、学生1+老人1で支えあうって形がTV等で取り上げられ珍しくない中、学生複数+高齢者1ってアピールするには魅力がなんだか足りない。
ってなんだか批判ですね。でも頭の面白い人達とモチベーションを持ちながら学生がシェアハウスで暮らすっていう今まで考えた事の無い事についてディスカッションするのはすごい面白かったです。ありがとうございました。これからの井戸端会議がどんな感じになっていくのか楽しみにみてます。

 

(藤村)

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(藤本)

私は最近将来どういった環境の町に住みたいとか、こんな設計の家に住みたい、とか週末はこういう風にして家族と過ごしたいとか、どんな人と住みたいとか、具体的に考え始めていますが、やはり重視するのは「居心地のよさ」かなと思います。

 

しかし、シェアハウスに求めることと、普通にずっと住んでいく家に求めることとは、結構違うのかなと。かなり非日常的でスリリングな要素を追求できるのがシェアハウスの有限性が一番いい形で現れることなのかなと思いました。

 

今私は一人暮らししてますが、受動的な刺激が足りないように思います。というのも、もし誰かと住んでいれば、その人の興味分野とか趣味とかが、その人の周りにはあふれていて、いやでもそれらに触れる機会が増えるから。一人だと、自分で開いていくしかありません。そういった意味で、シェアハウスは、ほかの人と一緒に住むというだけでかなり刺激的なのだと思います。

 

話が飛びますが、家庭の役割ってめちゃめちゃ大きい。勿論仕事のストレスは家庭への悪影響を及ぼすかもしれない、逆に家庭でのストレスも仕事に悪影響を及ぼすことは間違いない。

バリバリ働いて、社会をよくするために、子供が豊かに暮らせる社会にするために!と言っていて、ふと足元を見ると、あれ・・・?

そんな状況には陥りたくないと思うし、ともすれば、もし考える機会もなくそのまま大人になってしまうと、まさにそういうことが起こってしまうと思う。

 学生の時代に体験するいろんな「住む」の体験は、豊かな人生につながりそうだなと思いました。

 

一生続くわけではない期限付きの家族、シェアハウス。

どんな会話が家の中で繰り広げられるんだろう。

どんな気持ちで家に帰ってきて、どんな気持ちで家を出ていくんだろう。

誰がそこにいたらうれしいだろう。

 素朴な疑問に恥かしげなく答える努力を、今後はしていきたいです。

 

グループディスカッションするときは、なるべく議論が円滑に、切り口がわかりやすく、共有されているように、というのが大切にされるのが普通かもしれないけど、20歳の井戸端会議は、カオスでこそ生み出されるような新たな価値が生み出せる場だと思うので、もっと自由に議論できれば素敵だと思いました。

支離滅裂ですが以上!

 

 

(藤本)

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(真辺)

こんにちは。真辺です。

 

今回は「僕たちの楽しい都市生活実践」ということで、なにやらポップなタイトルで内容をぎりぎりまでごまかしながら人を集め、のべ20人の参加者と共にシェアハウスで何ができるか問題に取り組んでみました。

毎度のことながらだいたい何も考えていないファシリテーター(僕)と、丁寧に前提事項を確認してくれる人たちの力によって、今回もなんとかなった3時間でした。うん、たぶんなんとかなった。

 

僕、と鰐川と、たぶん森田と、あと数名の誰かは、10月いっぴから高田馬場の周辺で一緒に住みます。あまり考えていないのですが、理由は「楽しそう」だからです。毎日の生活にちょっと退屈していて、だったら、他者の存在にうんざりするくらいの生活のほうが楽しいんじゃないかとぼんやりと思うわけですね。なんなら喧嘩とかしたり、夜遅くまでお酒を飲んだりとかするのではないでしょうか。わからないけれど、そういう楽しみ方をしてみたいなと思っています。

僕は元来プライベートに無頓着だし、一ヶ月くらいひも生活したこともあるし、傾向として一人で寝るのが苦手なタイプなので、たぶんなんとかやって行ける気がしています。そこで引き起こるであろう"ノイズ"を、「ああこれはきっと宮台のいう絆コストってやつだな」と楽観的に捉えるような気がしています。し、一方でそれがとても重要なことのような気がしています。今回の井戸端会議のタイトルを「僕たちの楽しい都市生活実践」としましたが、それはそういう意味でもあります。つまり、僕にとっての楽しい都市生活に必要なものは、「帰る家」な気がしているのです。帰る家的存在を、このコミュニケーション不足とストレス過多で悩ましい都市生活に持つってことが、ここのところの僕の関心事であります。都市生活って疲れちゃいますよね。少なくとも僕はすごく嫌いなんですよ。だから家が一つあればいいなと思うんです。

しかし、ただ、そこで問題なのは、その上に何をのせればいいのかがわからないということです。いったい何をのせればいいんですか?家と友だちがいればだいたい満たされてしまって、その先にはまったくモチベーションが見いだせない。その上に何をのせれば良いのかがわからない。あるいは何ものせずに、ユニクロとマックとLINEによる"幸福な若者たち"的消費生活を送るしかないのだろうか。僕は消費生活以上に何をしよう。何を言っているのか自分でもわからないほどに、僕は今、生産者(?)的なモチベーションが消え失せています。だからこそ、今回、「シェアハウスという舞台で何ができるか」を考えてもらいました。その結果がどうだったのかはちょっとわからないなあというところですが、将来やりたいことって何だろうと漠然と思いました。

まったく、何を生み出していたら満たされるんだろう。よくわからないねえ。

 

 

(まなべ)

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(三重野)

お疲れ様です。

とても楽しかったです。

自分のアイデア力が全然なくてだめだめでした。

批判ではなく提案をっていう言葉がみにしみますね。

その点わにかわくんはがんばっていたと思います。ぼくもがんばります。

 

今回のは斬新で面白かったと思いますが、僕の班ではゴールの部分での意思疎通ができてなかったので、なかなか前に進みませんでした。

わがままを言わせてもらうと、もう少し、なんのために住むのかっていう部分は決めていただいてもよかったのかなと思います。

 

現実に住むことにするっていう前提があると、各員サークルなどの制約を持っており、あまり生活の部分に時間を割きたくない人がいたりするんですよね…。

とはいっても仮想状況だとなんでもありになってしまって現実的じゃなくなってしまう可能性はあります。

テーマを考えるのって難しいですね。

 

個人的には、自分の家が早稲田から遠く、移動に時間を使ってしまっているので、早稲田周辺でルームシェアができるととても有意義に時間をすごせるんじゃないかと思うのです。

それにプラスして友達と協力してなにかするってとっても楽しそう!ただただ楽しそう!

 

井上くんグループのやつめっちゃいいよね!

がんばれば実現できそうな感じ!

 

とまぁ小学生の感想文的な感じになってしまいましたが、

くだらない話を真剣にできるこの場が好きです。

 

あ、3グループにわけるのいいね!

多すぎるとあれだもんね!

【レポート】「僕たちの楽しい都市生活実践」(松山)

お疲れ様でした。松山です。

 

 シェアハウス(以下SH)というテーマについて考えるにあたって今回は主に現実的な課題、マネタイジングを中心に考えてきた、その結果としてそれぞれの班が発表順に雑誌その他、バー経営、高齢世代の利用という案に至ったと思います。

 

 高齢者との共存というC班の案なんか特に面白そうだったりしたのですが、現実的な課題としてあげられるのは何もマネタイジングだけでもないような気もしています。

 

 何が言いたいかというと(あんまりにタイムリーな話題過ぎてちょっと触れたくないといえばまさにそうなのですが)、性の管理をいかにするかという切り口から考えてみても面白かったんじゃないかと。フーコーも講義(『安全・領土・人口』か何かなど)の中で、共同体を管理するにあたってまず整えなければならないものとして、①殺人の禁止の次に②性の管理を挙げています(ここで正確な出展を上げない時点でこの文章はエッセイ的なさむしんぐにならざるを得ないのですが)。

 

 いや、結構本当に今回の件で割と困るのが、性の管理について考えるというテーマが「ああ、あの馬鹿が言ってたことね」で済まされることになりかねないということなんじゃないかなと思ったり。ちなみに性って哲学というジャンルがそもそも苦手とするところのものであり、晩年のフーコーとか前期デリダなんかがその展望を示しながら結局その仕事が完成されることがなかったテーマで、そんなある意味で夢と希望あふれる領域が「ああ、あの馬鹿が(ry」で流されるようになった日にはもう『性の歴史』シリーズむしゃむしゃ食べながら奇声をあげて全裸で中央図書館の蔵書に火をつけて走りまわりたくなりますよ。

 

 

 

 閑話休題。

 

 マネタイジングという公共的要素の大きい問題を取り扱う制度をいくら綿密に確立したところで、それが性という人間にとって私的にして基本的な要素を無視している限り、抑圧されたものが回帰する可能性に常にさらされることになる、その危険についての問題意識です。下世話な話をするようで申し訳ないのですが、僕のような下世話な人間にはこういう下世話な点が気になってしかたないのです。(まぁだって男五人のネクストトゥー原始共同体(失礼すぎる)の話をするのにそんな柳田クニヲメンタルな清教徒的視点で語る義務があるのかと言ったらそんなことはないだろうし)

 

 性の管理について、具体的にはまず二つの分岐があると思います。つまり①そうした私的な問題については個人がそれぞれ解決したうえでSHに居住する②性という私的な問題の解決を内在するような一つのアーキテクチャとしてのSHを形成する。

 

 正直②は実際的に無理ですよね、それはもうそんな共同体の作り方あるなら教えてくれよw俺明日からコミューン作るわwwという話であって、いくら政治的正しさで頭がいっぱいのポリティカリー・コネクトネスの申し子たる我々世代にとってすら超絶夢物語にすぎません。だから仕方なく①の道を選びます。

 

 何が言いたいかというと、実際にSHの問題を考えるにあたって①の選択をするとして、それは本来的には②という「理想」の選択肢の代替案にしか過ぎないのだということ。さらに忌憚なく言えばSHで夢と希望と人間関係とそして金を分かち合うとしても、性(これはあくまで他の様々な私的な要素のうちのひとつの例でしかありません)は決して共有しない、その白々しさは永遠に否定できないだろうということです。

 

 だから①的SHの構想は悪い、ということを言っているのではありません。そうではなくそれがそもそもからそうした矛盾を(カント-デリダ的な言い方をすれば根源悪を)内包したシステムであるということを自覚する必要があるのではないかということです。たぶん最初にいくらソリッドな制度を確立したとしても、(自動車と歩行者だけから成るはずの道路交通に自転車が現れるように、ヤクザというシステムが我々の社会で何らかのかたちで必要とされているように)その制度から逸脱しようとする諸々の因子、逃走線を引く存在が常に遅れてやってくるでしょう。ですがそうした存在を排除することはきっと永遠にできません。というよりむしろ、制度は最初から運命的に不完全で(そしていくら制度的改善を試みてもそれは不可能で)、それを補完するのがそれら逃走線を引く異端的な因子たちなのでしょう。

 

 SHという制度を考えるにあたってそうした脱=制度的的な要素をいかに視野に入れていくか、という課題をいつか(ようするにSHがうまく回らなくなってきたとき)考えられる必要が出てくるんじゃないか…みたいなことを考えました。

 

(松山)