(20歳の)井戸端会議

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【レポート】「恋愛ってなんなんでしょう?ノルウェイの森を読んで」(井上)

 
井上です。感想を書きます。
恥ずかしながら、今回の課題本であった村上春樹の「ノルウェイの森」は、たしか3年ほど前に1度読んだきりで、映画も見たものの(僕の大好きな)水原希子がすばらしすぎた、というイメージばかりが強烈に脳裏に焼き付いております。今回の討論を総じて、かつての記憶を何となく手繰り寄せようとしてフンフン唸っておりましたが、わかったのは人間の(僕の)記憶能力なぞかなり適当であるということでした。
討論では話題が2転3転あちらへこちらへと散漫だった印象が否めませんが、恋愛もふくめてけっこう「コミュニケーション」にまつわる問題だということに集約できる気もします。簡潔にいうと、「コミュニケーションは面倒くさいけれど、必要だよね」ってことでしょうか。それに関してちょっと掘り下げます。掘り下げるというより、僕のおもう論点を整理したいと思います。内容が逸脱してもはや「きみは何を言っているんだ」状態になることをも厭わずに、感想を書きます。ゆるしてください。次回は頑張ります。
 
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僕らの暮らしは、日を追うごとに瑣末なノイズが取り除かれてゆき、ますます便利になってきている。便利な暮らし、それはたいへん素晴らしいものだ。僕だって面倒くさいのは厭だし、たぶん手を叩いて労働量の多いことを歓迎する人はいないんじゃないかと思う。かつて炊飯器が発明されたおかげで、家事に勤しむ主婦の睡眠時間が平均して1時間増えたという。今では空腹を満たすのには炊飯器すらいらない、ご飯を炊いてくれる人すらいらないかもしれない。ぶらりと外へ出て牛丼屋に入れば、機械で数百円で購入した食券を黙ってテーブルの上におけば、数分後には欲求を満たすのに十分なものがたちまち目前に現れる。そこにコミュニケーションは一切なくたっていいし、その過程のなかでコミュニケーションは必要とされない。そうしたいわゆる「動物的」な現象が氾濫する一方で、また別の回路で僕たちはコミュニケーション(あるいは、他者からの承認)を本質的に必要としている。むしろ、「不便」だったかつての社会よりも増してコミュニケーションを希求する傾向は強まっているのではないだろうか、という肌感覚すらある。インターネットではコミュニケーションのあり方が歪になり、自分の投稿にいくつ「いいね!」がついたか、誰にフォローされたりリムーブされたかといったことにきっと多くの人がはらはらしている。いつもだれかとつながっていたい。だからこそ僕たちは、実益なぞたかが知れているはずなのにいつまでもツイッターのタイムラインを追いかける、フェイスブックを何度もリロードする。
 
「手段」でしかないコミュニケーション自体が「目的」にすり替わってきているという話があった。手段としてのコミュニケーション(以下、手段コミュニケーション)と、それ自体が目的と化したコミュニケーション(以下、目的コミュニケーション)。それも感覚でしかないのだけれど、社会に暮らす上で人間が求める「コミュニケーション」の総量というのはいつの時代も一定なのではないかと考える。ただ、さきの利便性の向上によってノイズが取り除かれることで、他者を要請する土着的な手段コミュニケーションの量は減ってきた。その代わりとしておのずと人々はコミュニケーションそれ自体を目的にする。
 
コミュニケーションは総じて面倒くさい。だが、目的コミュニケーションはもっと面倒くさい。なぜならコミュニケーション自体が目的となっている以上、そこに何の生産性もなく、その生産性のなさは何らかのポイントに到達すればそれがストレスになってくるはずだからだ。コミュニケーションをする双方にとってそのコミュニケーションからは基本的に「価値」は得られず、コミュニケーションの先には何も広がっていない。
 
今回のテーマ(やっと)、恋愛に関してもおなじことが言える。実際に、「恋愛関係を押し進めるのはもう面倒くさい」って複数人が言っていた。それは「恋人」という自由な合意に基づく関係性を持続させるために、手段コミュニケーションであるべきものが、目的コミュニケーションに陥ってしまうケースが頻出するからではないだろうか。「世間体を保つ(他者からの承認をステータスに求める)」「セックスをする(性欲を満たす)」ことなどが念頭の目的に据え置いて、手段コミュニケーションをすることだって可能かもしれない。しかしそれが罷り通るのははじめだけで、コミュニケーション自体には持続性はない。当初の目的がどこかで達成されその関係性に価値がなくなると、手段コミュニケーションは関係性の影響下における目的コミュニケーションに変化してしまう。恋人だから日に何度もメールや電話をする。恋人だから月に数回会う。そういう目的コミュニケーションへと陥った自由な関係性というのは、すごくストレスフルで面倒くさい。とりわけ、どんどんとノイズが取り除かれていっている実社会においては、その「ノイズ」とも言うべきそれは矢面に立たされている。
 
 
 
じゃあどうすればいいの、ってことだけど、やっぱり僕はここに帰結してしまう。互いに価値を提供できる人間同士の手段コミュニケーションにしか、その先を見出せない。その関係性において、ある一定の価値観の同質性を前提として、趣味嗜好が一緒であったりと「似ている人間」同士でしか、自発的で持続的なコミュニケーションの実現は難しいのではないか。「類は友を呼ぶ」という言葉がずっと存在しているように、これまでの歴史で類は友を呼び続けてきたんだと思う。実際にそんなことを常に思いつつ人と付き合うことばかりではないとは思うけれど、自分と相手で同等に価値を提供しつづけていると思い込みをしなければ、いずれそのコミュニケーションに居心地の悪さを感じてしまうようになる。
 
「個」の時代とかいわれている。それに関してはへたなことは言わないが、そういう時代だからこそ社会やコミュニティという外的要因にコミュニケーションはますます縛られなくなってきて、個はある意味さらに自由になっている。べつに結婚だってしなくたっていい、同じ会社に留まらなくたっていい、そういう価値観が広がっている。だからなおさら、「価値を提供し合う」という手段コミュニケーションがより必要になってくるのではないだろうか、という結論に行き着く。自発的で、持続的なそれの実現。
 
「それでも」、実際にそれ以外のコミュケーションの活路はないのか、と考えている、とマナベ君は言っていた。その気持ちはすごくわかるけれど、僕はいまのところここまでしか辿り着けないので、この先があるとするかもしれないなら、もうすこし模索していければいいな。というか、もしかしたらおなじことなのかもしれない、となんとなく思ったりもします。
 
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と風呂敷を広げるだけ広げてまとめないでだらーっと書いてみました。やばいワタナベ君も直子もみどりもガン無視している。しこんな長く気持ち悪いですね。ご容赦ください。
次回の井戸端会議、5年後の僕らのホワイトカラー的な暮らしについてだそうですね。なにかしらつながってくる部分はあるのでは。引き続き、よろしくおねがいします。
 
(井上)