(20歳の)井戸端会議

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【レポート】「恋愛ってなんなんでしょう?―ノルウェイの森を読んで― 」(真辺)

真辺です。

今回の20歳の井戸端会議は「―ノルウェイの森を読んで―」ということで、ワタナベくんの恋愛やら、ワタナベくんのコミュニケーションの仕方やら、ワタナベくんのセックス観やらを中心に話しました。

ノルウェイの森を読んだ理由は主人公「ワタナベくん」が早稲田出身で、そして僕たちと同じ19歳だったからでした。つまり、時代だけ40年くらいすり替わった状況に、今僕らはいますよね。そういうことをなんとなく感じれたらいいですよね、という会だった(気がしてる)。象徴的な話だと、小説の端々から感じられる学生運動の匂いは、僕らの生活には跡形もなく消え去っている。「当時はどうだったんだろうねえ」という、いつもと変わらぬ井戸端会議の調子(=実のところよくわかってない)で、それでも僕らは、時代の違ってやつに想いを巡らせてみた。

もうちょっと具体的に言おう。

学生運動なんて女とやりまくるだけの口実だった。」という言葉をどこかの有識者が言っていたけれど、とにかくノルウェイの森では、僕たちの日常とはちょっと違う性文化が描かれている。ワタナベくんは和敬塾の先輩・永沢さんに連れられるがままに記号的なセックスに勤しむ。それが必要以上に記号的で、そして行きずりすぎじゃないか?という感覚は、きっと僕たちの正直な感想なんだろう。あるいは僕らはまだ19歳なんだということかもしれない。

いづれにせよ話はそのまま「恋愛について」へともつれ込む。

「何故ワタナベくんは直子を愛し続けたんだろう?」なんて野暮な疑問が、避けがたく僕たちの頭を過る。「みどりがいるじゃないか、みどりが。」と、僕も思う。記号的な交わりと、異様なくらい対照的に描かれている直子という女性。「めんどうくさい」という言葉を誰かが発した。そう、普通に考えて、直子のことを好きでいつづけることは、圧倒的にめんどうくさいはずだ。実際に、結果的にワタナベくんはかなりのダメージと徒労感にさいなまれることになったし、なぜ「それでも」なのだろう?と、そんな話が持ち上がる。「それが恋愛だ」なんて粋な事は僕らは言わない。

話はコミュニケーションのめんどうくささに移っていく。

やっと僕らの現在地の話だ。要するに、「コミュニケーションってめんどうくさい」という話。だってコミュニケーションなんて取らなくても、それでも僕らは生活出来るじゃん。って感覚。恋愛なんてギャルゲーで補完し、セックスなんて風俗に行けばいい。よくわからないけれど、そういうライトな感覚で、コミュニケーションを消費する。それができてしまうよねって傾向。それはとってもステキなことだ。誰も傷つけないし、自分も傷つけられることはない。余計なトラブルもないし、不都合なんてまったくない。自分に優しいスタイルだ。

でもそれでいいのだろうか?セカイ系とか草食系とか、僕たちはいつまでもそのまま都合のいい状況を続けることが出来るのだろうか?僕は頭をもたげてしまう。なぜなら僕は経験的に、コミュニケーションというものに少なからず価値を感じているから。いつまでも一方的で暴力的な消費だけでは、いきづまってしまうのではないか、という気持ちがどこかにある。

僕たちは、傷つけたり、傷つけられたりすることを恐れている。むしろそっちの方が平和だしいいことじゃん、と思う傾向にあると思う。ワタナベくんに共感してしまうセカイ系なきもちは、つまりこういうことな気がする。

しかし、生きていくと言うことは、"本来的に"他者との関係性の中で、ダメージを負い、ノイズに耐え、一方で避けがたく攻撃してしまうことなんじゃないの!?よーわからんけど。そしてそれは、たとえいくら技術が発達してパソコンだけで生きていけるようになったとしても、なかったことにはできない気がしている。それをなかったことにするのは、さすがに甘ったれすぎている気がしている。ノルウェイの森は、一方でそのことを強烈に描いている。その昔、この本の帯には「100パーセントの恋愛小説」と、書かれていた。

 

「それでも避けがたく、コミュニケーションをせざるを得ない。」

だからそれを受け入れるところから始める"べき"だ。と、敢えてそう言ってみる。特に、きちんと男性性というものと向き合う"べき"だ。それが今、草食系って雰囲気の人たちが、向き合うべき課題な気がしている。自分は男性である以上の存在ではないと、自覚する必要があるんじゃないだろうか?

そうしてついに、そのポジティブな面に目が向いた時、やっと僕らは部屋から出れるんじゃないだろうか。

 

自戒を込めて、というより自戒。

 

 

(真辺)